2018年に公開された、伝説のロックバンドQUEENのボーカルであるフレディ・マーキュリーの実話をもとにした映画「ボヘミアン・ラプソティ」についてです。
映画内では、彼の生涯を語るのに欠かせない、この作品の鍵を握る人物ともいえる、ポール・プレンターの存在がとても印象的でした。
フレディ・マーキュリーを同性愛者へと導き、派手な夜遊びをする姿など、悪い印象を持った方が多くいらっしゃるのではないでしょうか?
ポールは本当に存在していたのか?
ポールは何者なのか?
今回はフレディ・マーキュリーの運命を変えたポール・プレンターに焦点を当てていきたいと思います!
ポール・プレンターは実際に存在した?
それでは実際に、ポール・プレンターは存在したのでしょうか?もしくは映画上の架空の人物なのか?
結論としては、ポール・プレンターは存在します。
実際に、ポールがインタビューを受ける動画や、フレディ・マーキュリーの側に寄り添う写真が多く残されており
彼が実在している証拠は数多くあります。
ポールは、1977年〜1986年までの9年間、QUEENではなく、フレディ・マーキュリー個人のマネージャーを務めました。
2人の関係はそれだけに留まらず、個人マネージャーでありながら、恋人同士でもありました。
つまり、同性愛者であったということです。
そのため、QUEENの他のメンバーからはことあるごとに邪険に扱われ、
フレディによくない影響を与えた人物として嫌われていたそうです。
映画の中でも、ポール・プレンターに出会ってからフレディ・マーキュリーを取り巻く環境や人生そのものが大きく変化していく様子が描かれており、まさにキーパーソンと言える存在だったようです。
ポール・プレンターの正体は何者?
ポール・プレンターは1946年生まれのイギリス人で、カトリック信者の家に生まれました。
なかでも彼の生まれた地域はカトリックが少数派で、イギリスの植民地支配によりプロテスタントへの転向の圧が強い時代であったにも関わらず、強いカトリック信仰を貫いた家庭であったとのことです。
しかしながら、当時のカトリックの基本教義では、同性愛が認められておらず犯罪者としてみなされていました。
よって、彼はカトリック信者の中でもマイノリティとして苦しんできた過去が予想されます。
また、イギリス領だったザンジバル(現在のタンザニアの一部)で生まれたフレディ・マーキュリーも同様、
ザンジバルからイギリスへ移民した難民家族であるというアイデンティティを持ち、まさにイギリスでのマイノリティでありました。
そういった共通点から、お互いに見捨てることのできない強い感情を抱いていたのかもしれませんね。
さらに、フレディ・マーキュリーは1991年の11月にエイズによる気管支炎で亡くなっていますが、
ポール・プレンターも同じくエイズを発症し、フレディ・マーキュリーが亡くなった3ヶ月前の1991年8月に合併症で死亡しています。
最期まで共通点の多い2人であったことがわかります。
ポールがフレディに近づいた目的は何?
フレディ・マーキュリーとポール・プレンターの出会いは1975年に訪れたバーがきっかけで、9年間個人マネージャーを務めながらも、恋人関係でもありました。
しかしながら、ポール・プレンターはマネージャーとしての仕事を全うせず、フレディ・マーキュリーとQUEENをメンバーを対立させたり、彼のお金で豪遊したりと、周りの人間やファンからは嫌われていた存在だったそうです。
1982年発売のQUEENの10枚目のアルバムである「Hot Space」がリリースされてから2人の関係は悪化しはじめ、1986年にマネージャーを解雇されました。
その大きな原因は、解雇された翌年にフレディ・マーキュリーのゴシップ情報をマスコミに売り、多額のお金を儲けたことです。
その額はなんと約32000ポンドにものぼるそうです。
ゴシップの内容は、フレディ・マーキュリーがバイセクシャルで、毎日違う男性と夜を共にしていた事実や、
その理由が1人で夜寝ることができなかったからだという事まで明らかにしていました。
その他にも、愛人だったジョーン・マーフィーやトニー・バスティンの2人がエイズで亡くなった事や、彼らに渡していたプレゼントまで暴露しています。
ポール・プレンターはフレディ・マーキュリーの複数いる愛人の内の1人だったと言われており、情報を暴露したのが金銭目的だけではなく、嫉妬からくるものだった可能性もあるようです。
最後に
フレディ・マーキュリーの個人マネージャーだったポール・プレンターについてまとめてみました!
波乱万丈な人生を送ったポールとフレディですが、フレディの人生を語るにはポールは欠かせない存在であることは間違いなさそうです。